照國(照国)神社
terukuni jinja

照國神社 前編
~天才、島津斉彬が鳴らした警鐘~

創建 元治元年(1864年)
御祭神 照國大明神(島津斉彬しまづなりあきら公)
御神徳 家内安全、商売繁盛
その他全般

島津家28代当主、11代藩主の島津斉彬公を御祭神とする照國神社は、鹿児島の総氏神様として県民から特別な親しみを持たれている神社である。西郷隆盛や多くの偉人が慕い続けた斉彬公の功績や、境内の奥に広がる隠れた見所に迫る。

島津斉彬公の生い立ちと、創建

照國神社の創建

鹿児島市の繁華街近く、城山(しろやま)の麓に鎮座する照國神社は、幕末期に島津藩主に就任し、数多くの功績を残した島津斉彬(しまづ なりあきら)公を御祭神とする神社だ。
安政5年(1858年)に斉彬公が急逝した数年後、もともとこの地にあった南泉院という寺内に、斉彬公を祀る小さな神社が建てられたのが始まりだという。その後、文久3年(1863年)に天皇から「照國大明神」という神号を与えられ、元治元年(1864年)に創建されたのが照國神社である。

繁華街を抜けると見えてくる照國神社の鳥居

教育に厳しい母と、海外好きな曽祖父

島津斉彬公は、教育熱心な母:賢章院(けんしょういん)の教育方針により、6歳のころから中国古典の素読を始め、11~12歳の時には「四書五経(ししょごきょう)」(儒教の教典で重要な9種の書物、論語など)をすべて読破するほどの秀才に育ったという。
また、海外の情報文化に強い関心を持っていた曽祖父:重豪(しげひで)の影響も受け、蘭学や科学など多方面の学問にも興味を持ち、海外情勢にも明るい人物となっていった。

島津斉彬公の銅像

境内にある「照國文庫資料館」には、斉彬公の幼い頃に書いた書や絵、ローマ字で書かれた日記などが保管されており「天資聡明」な斉彬公の存在感を感じられる。


島津斉彬公 筆「鷹」


島津斉彬公 12歳の時の書

ローマ字で書かれた日記

奥ポイント

一人で唱えた日本の危機

勉学だけでなく、芸術や武術などにも優れていた斉彬公。全国の大名から一目置かれる存在だったという。そんな天才が一人で唱え始めたのが「日本の危機」であった。
19世紀、日本が鎖国をしている間に世界では弱肉強食の植民地化が進んでいたのだ。特に大国「清」がアヘン戦争で英国に敗れた話は、斉彬公に大きな危機感を与えた。
実際にこの時代、ペリーの黒船をはじめ渡来船が頻繁に日本に押し寄せてきている。

斉彬公の愛用していた地球儀
斉彬公の愛用していた地球儀


約60年の間に度々渡来船が訪れた

日本が植民地化されることを危惧した斉彬公は、43歳で藩主に就任すると、さっそく「富国強兵」に向けた取り組みを進め、鹿児島市磯(いそ)地区に「集成館(しゅうせいかん)」という工場群を築いた。そこで軍事品や薩摩切子・薩摩焼・ガス灯・写真・活版印刷などの製造や研究に力を入れ、国を豊かにし強くなるための政策を進めたのだ。この「集成館事業」が全国に広がっていったのが「明治維新」という言い方もできるだろう。

日本初の洋式軍艦や反射炉を建造し近代化を進めた

照國神社の「日の丸」が特別な理由

日本の近代化を力強く進めた斉彬公は、他にも大切なものを残した。それが「日の丸」である。照國文庫資料館には日の丸「筑前茜染日章旗」が保存されている。

照國資料館に飾られている日の丸

島津斉彬公が取り組まれた事業のひとつに造船事業がある。その際、日本船と外国船を区別するための旗が必要と考えた斉彬公は「日の丸」を日本の総船印とするよう幕府に提案。「日本は日出ずる国であり、太陽の神であるアマテラスの岩戸開きの故事もある」ことから、日の丸が日本の印として相応しいと思われたのだ。
幕府はこの提案を採用し、その後国旗へと昇格させた。
今でもこのことを記念して、照國神社では「国旗祭」という祭りを7月11日に斎行している。

奥ポイント×2

斉彬公と西郷隆盛

斉彬公は教育の面でも開明的で、日本の未来のためには「国民の学問の習得」が必要だと考えていた。そこで身分や家柄にとらわれず有能な人材を育てることに尽力し、優秀な人材は積極的に登用したのだそう。西郷隆盛や大久保利通といった幕末~明治にかけて活躍した偉人たちは、こうした斉彬公の先進的な考えにより世に出たのだ。また、斉彬公は「ひと癖ある人間の方がいざという時に強い」とも説いており、そいうった考えにより西郷が目に留まったのかもしれない。

家柄に関係なく優秀な人材を登用した

数々の偉業・功績を残した斉彬公だが、その具体的な教えを残した資料は少ない。斉彬についての記録を残すよう西郷隆盛や大久保利通は、藩から命令を受けた。しかし言葉で表すことが困難だったという。斉彬の唯一の弟子、西郷が残したのは「お天道様(太陽)のような方だった」という表現のみだった。

西郷隆盛 銅像

斉彬公を「お天道様のようなお方」と表した西郷隆盛

総氏神と六月燈

鹿児島の総氏神様とは

照國神社は、鹿児島の「総氏神(そううじがみ)」だと言われている。
一般に「氏神」とは、同じ氏族の祖先、または自分が住む地域を守る神様のことを指す。
ここでいう「総氏神」とは、地域を開拓し発展をもたらした神のことだ。斉彬公は、鹿児島のみならず日本の近代化を推し進め時代を切り開いた神として「総氏神」と呼ばれているのだそう。

照國神社の御社殿

鹿児島の総氏神として親しまれる照國神社

鹿児島の夏の風物詩「六月燈」とは

鹿児島の夏の風物詩といえば「六月燈(ろくがつどう)」という夏祭りだ。
県内の神社・寺院では、7月(旧暦6月)になると燈籠が境内を彩り、出店などで賑わう光景が見られる。

照國神社の六月燈

この六月燈の始まりは、島津家に由来するもの。島津家初代・忠久(ただひさ)をはじめ、中興の祖・忠良(ただよし)、薩摩の英主と謳われた貴久(たかひさ)の三人の命日に合わせ、それぞれが祀られたお寺で、燈籠を灯したことが始まりだった。もともと武家の習慣だったものが、庶民にも広がっていったのだ。
つまり、静かに先代へ祈りをささげていた六月燈は、徐々に賑やかな夏祭りと融合し、現在のような大賑わいの祭りへと変わっていったということである。
照國神社の六月燈は斉彬公の命日である毎年7月16日と前日の15日。県内最大規模で、2日間で約10万人が訪れるそう。

約10万人の人々が集まる

前編では御祭神 島津斉彬公の偉大さについてご紹介した。この背景を踏まえて参拝すると、神前で思うことも変わってくるかもしれない。
後編では、境内の隠れた見所をご紹介する。

基本情報

神社名

照國神社 ~Terukuni Jinja~

住所

〒892-0841 鹿児島市照国町19-35
19-35, Terukunicho, Kagoshima-shi, Kagoshima, 892-0841, Japan

アクセス

JR鹿児島中央駅より
徒歩20分
バスで約10分「天文館」バス停下車徒歩5分
市電で約10分「天文館」電停下車徒歩5分

HP

http://www.terukunijinja.jp/

こんな方におすすめ

歴史好き、明治維新、幕末、大河ドラマ

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