大阪天満宮
osakatemmangu

大阪天満宮 前編
~学問だけじゃない!日本文化を発展させた天神様の本当の凄さ~

創建 天暦3年(949年)
御祭神 菅原道真すがわらのみちざね
御相殿 手力男命たぢからおのみこと猿田彦大神さるたひこのおおかみ
野見宿祢のみのすくね蛭子尊ひるこのみこと
御神徳 学問、正直、技芸 など

学問の神様として名高い菅原道真公をまつる大阪天満宮。天神様こと菅原道真公は、生前この地をお詣りされたと伝わっている。学問だけでなく、今世にまで伝わる多くの功績を残した菅原道真公の本当の凄さとは何か。境内を歩きながら、天神様の真のお姿を追う。

大阪天満宮のはじまり

はじまりは都を守護した大将軍社

大阪天満宮が創建されたのは天暦3年(949年)だが、実はその300年程前の奈良時代から、この地には「大将軍社(だいしょうぐんしゃ)」という神社があった。大将軍社は、当時の都「難波長柄豊崎宮」を守護するために建てられた神社で、今でもこの境内を守護している。御祭神は八衢比売神(やちまたひめのかみ)という厄除けの神様だ。その大将軍社に、太宰府へ左遷される菅原道真公一行が立ち寄り、旅の無事を祈願したという。

大阪天満宮の北側にある鳥居

不思議な現象が起こりだす

それから2年後、道真公は太宰府でお亡くなりになった。無実の罪に反発することもなく、自分が信じる誠の道を静かに貫き最期を迎えたのだ。すると、都(当時は京都)で疫病が流行りだし、天皇がお住まいになる清涼殿に雷が落ちるなど天変地異が起こりだした。人々はこれを道真公の怨霊によるものと信じ、その霊力を鎮めるため菅原道真公を神様としてまつるようになっていく。
そんな折、この大将軍社の前に一夜にして7本の松が生え、夜ごとその梢が金色に光る現象が起きたそう!この噂を聞いた当時の村上天皇は、役人たちに詳しく調べさせ、生前道真公がここを訪れていたことを知った。そこで道真公の御神意であると思い、大将軍社の森に道真公をまつる神社を創建するよう命じたのだ。道真公が参拝した約50年後のことである。

大阪天満宮の摂社「大将軍社」の社殿と鳥居

つまり、大将軍社がもともとこのあたりの氏神様であり、大阪天満宮はその敷地に入らせていただいた形になる。人間に例えると、大将軍社は大家さんのような存在なのだ。そのため大阪天満宮では、元旦最初の神事は大将軍社で行われ、そこで「租(そ)」という家賃のようなものを奉納してから、天満宮の神事に移るらしい。
これを参考にすると、私たちが参拝する時も、まずは大将軍社で手を合わせてから天神様に参拝するのが礼儀かもしれない。決まりごとではないが、時間に余裕がある人は、ぜひ大将軍社から挨拶してみよう。

奥ポイント

菅原道真公の本当の凄さ

白紙に戻そう遣唐使

菅原道真公と言えば、学問の神様というイメージが強いが、道真公は他にも多くの功績を残している。たとえば、聖徳太子の時代から続いていた「遣隋使~遣唐使」の中止を提案したのは菅原道真公だ。「白紙(ハクシ=894年)に戻そう遣唐使」の歴史的出来事はあまりにも有名である。これにより、日本は平仮名をはじめとする日本特有の文化を醸成していき、いわゆる国風文化が栄えていった。
今も残る美しい和歌やかな文字は、この時の道真公の決断によって発展を遂げたといっても過言ではないということ。
また道真公自身も連歌や書に優れ、日本三筆の一人にも数えられている。武術にも優れており、弓を持たせれば百発百中。漢詩漢文もお手の物。まさに神が万物を与えた天才だったのだ。境内の北東には、使い古した筆を納めて書道の上達を願う「筆塚」もある。

大阪天満宮の「筆塚」菅原道真公は筆の名人でもあった

大阪天満宮は正直の神様

大阪天満宮では、菅原道真公を「正直の神」と伝えている。無実の罪を着せられても、自分から反発することなく「正しいことをしていれば自ずと無実は晴らされる」という信念を持ち、誠の道を貫いた人生が「正直の神」と言われる由縁だ。実際にお亡くなりになったあと、道真公には「正一位太政大臣」という貴族の最高位が贈られている。疑惑を掛けられても、最後にはその疑惑を晴らした神様ということで「裁判の神」として慕う人もいるらしい。
さらに道真公の人柄を表すエピソードとして、政治の第一線にいた当時、代理を立てる人物が多い中、自ら国司として讃岐など地方まで足を運んだという話も伝わっている。学問だけに限らず、菅原道真公の生き方から学ぶ点は非常に多いのだ。

正直の神様、菅原道真公をまつる大阪天満宮の社殿

正直の神様、菅原道真公をまつる大阪天満宮の社殿

なぜ全国に天神様が広がったのか

江戸時代に一気に広がった天神信仰

おそらく皆さんの住む地域にも、天神社・天満宮が身近にあるはずだ。実際に、菅原道真公をまつる神社は、全国で1万社以上あり、お稲荷様、八幡様、神明様に次いで多い数となっている。どのして今のように全国各地に天神信仰が広まっていったのだろうか。

大阪天満宮の牛像

信仰拡大の背景には、江戸時代に普及した「寺子屋」の存在があった。庶民たちの学問施設だった寺子屋には、学問の神様として菅原道真公=天神様がまつられていたそう。こうして徐々に祟りのイメージから、学問の御神徳のイメージが強くなっていったのだ。そして寺子屋の普及とともに、天神信仰も庶民化が進んでいったと考えられる。
江戸時代に、世界でも驚異の識字率を誇っていた日本の陰には、天神様のお支えがあったのかもしれない。

奥ポイント×2

歴史の荒波にもまれた境内

大阪天満宮と戦乱の世

1100年以上の歴史の中で、多くの政治的影響を受けてきた大阪天満宮。織田信長の頃には、石山本願寺を敵対視する信長の戦いが起き、天満宮は信長の本陣となった。江戸時代になると、徳川家康と豊臣家との戦い「大坂冬の陣・夏の陣」が勃発し、大阪天満宮は神輿や社家ともども吹田市に避難している。
その後、大坂が「天下の台所」として繁栄しだすと、寺子屋が増加したこととも相まって、大阪天満宮も賑わいを増していった。しかし、江戸時代だけで合計7回もの火災に見舞われている。御神霊は無事に守られてきたが貴重な古文書や宝物の多くは消失してしまったそう。さらに天保8年(1838年)の「大塩平八郎の乱」でも社殿が全焼している。

大阪天満宮と日本の歴史

明治42年(1909年)の火災「天満焼」では、当時の侠客(きょうかく:任侠を建前とした渡世人)小林佐兵衛が、天満宮を火の手から守るため、若い人を集めて本殿に水をかけ火災から守ったと伝わっている。これは司馬遼太郎の「俄」という小説の主人公のモデルとも言われている。北門付近にある燈籠には、小林佐兵衛が奉納した燈籠が残っている。

小林佐兵衛の名前が刻まれた燈篭
小林佐兵衛の名前が刻まれた燈篭

司馬遼太郎の「俄」の主人公として登場する
司馬遼太郎の「俄」の主人公モデル

ニワトリがいない?!大阪天満宮の境内

大阪天満宮の入り口として非常に目立つ「表大門」。頭上に目をやると、大きなしめ縄と鮮やかな方位盤が飾られている。しめ縄は出雲地方の玉造天満宮から奉納されたものだ。

大阪天満宮の表大門の上にある方位盤

この方位盤をよく見ると、酉年の絵がないことに気付く。大阪天満宮は酉年であってもニワトリをモチーフとしたものが出てこない。たとえば酉年の絵馬にはニワトリの代わりに霊鳥である「鳳凰」が描かれる。これは、菅原道真公が道明寺でおばさまと最後の別れの挨拶をしたとき、ニワトリが朝早く鳴いて出発の時間が早められたため、天神様はニワトリを嫌うと伝わっているからだ。

大阪天満宮は酉年であっても絵馬にニワトリは描かず鳳凰を描く

酉年にはニワトリの代わりに鳳凰が絵馬に描かれる

ちなみに、大阪天満宮の休憩所に掲げられた過去12年分の大絵馬は神職の方々による手描きのもので、デザインは浮世絵師の五世貞信(長谷川貞信)が手掛けている。毎年思考をこらした可愛い干支の動物が描かれているので、参拝の際はその力作もぜひ見て欲しい。

大阪天満宮の表大門

前編では、大阪天満宮の歴史と天神様について掘り下げた。後編では大阪天満宮の境内の見所や、絶対行きたい貴重な参拝日についてご紹介する。

基本情報

神社名

大阪天満宮 ~Osaka Temmangu~

住所

〒530-0041 大阪市北区天神橋2丁目1番8号
2-1-8, Tenjimbashi, Kita-ku Osaka-shi, Osaka, 530-0041, Japan

アクセス

地下鉄谷町線・堺筋線「南森町駅」下車 4番出入口を出てすぐの天神橋商店街に右へ、二ツ辻目を左へ50m
JR東西線「大阪天満宮駅」下車 JR東西線3番出入口を出てすぐの天神橋商店街に左へ、二ツ辻目を左へ50m

HP

https://www.osakatemmangu.or.jp/

こんな方におすすめ

受験生、就活生、歴史好き

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