岡太神社・大瀧神社
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岡太神社・大瀧神社
~紙の神様をまつる神社、日本一複雑な社殿建築~

創建 1500年程前
御祭神 国常立尊くにとこたちのみこと伊弉諾尊いざなぎのみこと
川上御前かわかみごぜん(紙の神様)
御神徳 和紙業界の総鎮守、子育ての神

福井県越前市にある「岡太神社・大瀧神社」は、“紙の神様”をおまつりする神社だ。今でもこのあたりは「和紙のふるさと」として知られ、和紙業者たちがその技を伝えている。今回は紙の神様の伝説と、全国でも特別目を惹く、日本一複雑と言われる社殿の荘厳さに迫った。

岡太・大瀧神社とは

岡太(おかもと)神社と大瀧(おおたき)神社は、大徳山(だいとくさん)という霊山の山上にある「奥の院(上宮)」と、山のふもとにある「下宮」から成り立っている。
奥の院では岡太神社と大瀧神社がそれぞれの社殿をもっているのに対し、下宮では両社の建物として一つになっているのが特徴だ。
 
もともと大瀧神社は「大瀧兒権現(おおたきちごだいごんげん)」という神仏習合の霊場で、白山信仰の本山である平泉寺(へいせんじ)の末寺として隆盛をきわめ、その別当「大瀧寺」の境内に、「岡太神社」という紙の神様がまつられていたらしい。

では、それぞれの神社の歴史を追ってみよう。

岡太神社・大瀧神社の神門と燈籠

岡太神社・大瀧神社の神門と燈籠

岡太(おかもと)神社のはじまりとは

歴史が古いのは「岡太(おかもと)神社」の方だ。岡太神社は「紙の神様」をおまつりする神社。ではどのような言い伝えが残っているのだろうか。

川上御前の伝説

今から1500年程前、越前五箇という地区を流れる岡太川の上流に、一人の美しい女性が現れ次のような言葉を人々に伝えた。

「この村里は、谷間で田畑が少なく暮らしにくい場所ですね。ですが、清らかな谷川と緑深い山々に恵まれていますから、紙を漉いて生計を立てれば暮らしは楽になるでしょう。」

川上御前は岡太神社の神様

川上御前(岡太神社・大瀧神社 パンフレットより)

そして女性は村人に紙の漉き方を教えられた。
村人たちはたいそう感謝し女性に名前を尋ねると、「川上に住む者です」と答えたため「川上御前(かわかみごぜん)」と呼んで崇めた。川上御前は、万物を産み出し育てる水の神様とも言われ、子育ての神とも信仰されたそう。

そんな川上御前をおまつりしたのが「岡太(おかもと)神社」のはじまりだ。「延喜式神名帳」(926年)にも式内社としてその名が登場している。

岡太神社・大瀧神社の下宮

下宮の御社殿は岡太神社と大瀧神社の遙拝所になっている

大瀧(おおたき)神社のはじまりとは

僧侶が神仏習合の寺院を開く

大瀧(おおたき)神社の起源は、推古天皇の時代(592~638年)に大伴連大瀧(おおとものむらじおおたき)が神様の降臨を請う「勧請(かんじょう)」をおこなったことが起源と伝わっている。

その後719年には、泰澄(たいちょう)という僧侶が大徳山(だいとくさん)を開山し、ここに神仏習合の修験道の道場を建て、川上御前を守護神としておまつりした。
この道場は「瀧兒大権現(おおたきちごだいごんげん)」または「小白山大明神(おしろやまだいみょうじん)※」 などと呼ばれ、別当寺として「大瀧寺」が創られた。
※白山信仰の拠点の1つとして栄えたため。

大瀧兒大権現は、当時すでにこの地の産土神として信仰されていた川上御前(かわかみごぜん)を守護神として迎え、主祭神に国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)をおまつりし、十一面観音菩薩を大瀧寺の本地※とした。
※本地…神仏習合の考えで、神様の仏としての姿のこと。

この大瀧兒大権現が現在の大瀧神社の前身になる。

岡太神社、大瀧神社の神門から望む拝殿

奥ポイント

紙が重宝された時代背景

仏教の広まりと越前和紙

こうして産まれた紙の神様が信仰を集めていった背景には、紙の需要増があった。
仏教の普及により写経用紙の需要が急増。また701年には大宝律令制度がはじまり、国は戸籍などの記録のため大量の紙を必要とした。質の高い越前和紙は重宝されたそう。
ちなみに正倉院には、730年に越前和紙に書かれた資料が保管されている。

この越前和紙の産業は、大瀧寺からの保護を受けて「紙座(かみざ)」という同業者組合を結成し発展していった。

岡太神社近辺では今も和紙職人たちがその技を伝えている

今も和紙職人たちがその技を伝えている

つまり
■岡太神社は“紙祖神”である川上御前をまつる神社
■大瀧神社は川上御前の御神威を受け紙業界の発展に寄与した元々神仏習合の神社
となる。

時代は進み明治になると、神仏分離令で大瀧兒大権現は大瀧神社に改称。
それでも越前の和紙産業は衰えることなく、大正時代には大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊がまつられた。岡太神社が、全国和紙業界の総鎮守と言われているのはこのためだ。

日本で初めて「お札(おさつ)」を作ったのも福井藩、また現在のお札に用いられている「黒透かし」技術も、越前和紙職人が開発したものだ。

岡太・大瀧神社の歴史と今

戦いの歴史

岡太神社と大瀧神社が、大きく歴史の波に呑まれたのは南北朝時代のこと。日本が北朝と南朝に分かれていた時代、南朝側についていた大瀧寺は北朝の斯波高経(しば たかつね)の猛攻にあい、大徳山の山頂にあった大瀧城は3日間持ちこたえた末に陥落してしまう。

岡太神社、大瀧神社の鳥居

その後、朝倉氏によって再興された大瀧兒大権現だが、織田信長の3度にわたる越前攻略で、1575年に家来の滝川一益(たきがわかずます)が大瀧寺の48坊をすべて焼き払ってしまう。しかしその後すぐに領主となった丹羽長秀(にわながひで)はじめ、歴代領主たちによって紙座は保護を受け、大瀧寺も紙座の組織と共に再興していった。

大瀧兒大権現(大瀧寺)はたびたび戦いの荒波に呑まれた一方、越前和紙は保護され続け今日まで技術を受け継いでいる。

神仏分離で大瀧兒大権現(大瀧寺)は大瀧神社へ

長い間、神仏習合の寺院であった大瀧兒大権現は、明治新政府が出した神仏分離令により「大瀧神社」と改められた。このとき、寺院関連の仏像などは処分されてしまうことが多かったが、大瀧寺の仏像は近くの法徳寺などのお寺にあずかってもらったおかげで、今も十一面観音や虚空蔵菩薩などの貴重な仏像が残っている。

木造十一面観音菩薩坐像・木造空蔵菩薩坐像

木造十一面観音菩薩坐像・木造空蔵菩薩坐像(パンフレットより)

奥ポイント×2

日本一複雑⁈至極の社殿建築

建築技術の限界に挑んだ社殿

決してメジャーな神社ではなかった岡本・大瀧神社がいま密かに注目を集めている。その理由の一つが、他に類を見ない社殿建築だ。江戸時代後期の天保14年(1843年)に再建された下宮の社殿は、技術の限界に挑んだかのような精巧な作りが迫力をはなち、国の重要文化財にも指定されている。

岡太神社、大瀧神社の社殿は複雑な屋根が特徴的

特に注目されているのは屋根の作り。
この入母屋造りに千鳥破風に唐破風、そしてまた入母屋に唐破風が重なっていく屋根は、全国でも類を見ない。世界的にも注目の建築物なのだ。

手掛けたのは曹洞宗本山永平寺の勅使門を手掛けた名棟梁、大久保勘左衛門。彼は、美しさと複雑さを併せもつ唯一の社殿を考案した。

岡太神社、大瀧神社の社殿には彫刻が施されている

この社殿の特徴は
・本殿と拝殿が一体になっている
・檜皮葺の屋根の複雑な形(おそらく日本一)
・拝殿正面に、獅子、龍、鳳凰、草花の彫刻
・側面と背面に、中国の故事を題材にした丸彫りの彫刻
などだ。

岡太神社、大瀧神社の背面の複雑な彫刻
背面の複雑な彫刻

中国岡太神社、大瀧神社には故事を題材にした丸彫彫刻
中国の故事を題材にした丸彫彫刻

どこを切り取って見ても、棟梁の並々ならぬ思いと人々のこの神社に対する信仰心が垣間見えてくる。冬場は雪除けのため一部テントで覆われるため、全貌を見たいときは初夏~秋のシーズンがおすすめ。

岡太神社、大瀧神社の社殿横の苔むした岩には蛇が現れることがあるそう

社殿横の苔むした岩には蛇が現れることがあるそう

一方、背後に立つ大徳山の山頂付近にある奥の院(上宮)には、岡太神社・大瀧神社・八幡社がそれぞれのお宮をもって鎮座している。春の祭礼では、奥の院から神様がお神輿におうつりになって山をお下りになり、里まで降りられて3日目に再びお上がりになる。

奥の院の大瀧神社(中央)・岡太神社(右)

奥の院の大瀧神社(中央)・岡太神社(右) (パンフレットより)

長い歴史がある祭礼

大瀧神社・岡太神社の祭礼は、古いしきたりを今に受け継いでいる、全国でも貴重な祭事だ。

≪春の祭礼≫ 5月3日~5日
【1日目】奥の院から神様が神輿に乗ってお下りになる
【2日目】例大祭で、紙能舞や湯立神事が行われる
【3日目】渡り神輿が各地区を巡幸する(氏子たちは神様に長く自分の地区にとどまって欲しいため争奪戦となる)そして最後にはふたたび奥の院へ帰られる

岡太神社、大瀧神社の春の祭礼のお神輿巡幸の様子

春の祭礼のお神輿巡幸の様子

そのほか、33年毎の「式年大祭(御開帳)」や、50年に一度の「御神忌(中開帳)」も今に受け継がれている。御神忌では「法華八講(ほっけはっこう)」という神仏習合の儀式を、今でもそのまま厳修している点が注目されている。

次回行われるのは
式年大祭=2039年「第40回式年大祭」
御神忌の大祭=2068年「1350年大祭」
の予定だ。

岡太神社、大瀧神社の1300年大祭の時の法華八講の様子

1300年大祭の時の法華八講の様子

今回は、紙の神様をおまつりする岡太神社・大瀧神社をご紹介した。平成30年(2018年)に行われた「1300年大祭」を機に一層注目が集まっており、近年は観光バスも増えてきている。

苔むした境内、高くそびえ立つ木々、燈篭の静寂さ、そして社殿の荘厳さ、ぜひ実際に訪れて感じてみてほしい。

そして、紙漉き体験ができる「パピルス館」や、和紙職人の作業が見られる「卯立の工芸館」などにも足を延ばして「和紙の歴史」を体感してみよう。

基本情報

神社名

岡太神社・大瀧神社
~Okamoto Jinja / Otaki Jinja~

住所

〒915-0234 福井県越前市大滝町23−10
23-10, Otakicho, Echizen Shi, Fukui Ken, 915-0234, Japan

アクセス

JR武生駅から福鉄バス南越線「和紙の里」下車徒歩約10分

HP(越前和紙の里)

http://www.echizenwashi.jp/goddess_of_paper/shrine/index.html

こんな方におすすめ

静かな場所が好き、あまり知られていない神社に行きたい、伝統工芸好き

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